順位付けなし
私たちは、子どもの頃からあたりまえのように順位を付けられ、競争を強いられてきました。テストの点数、通知表の成績、大学受験の合否、マラソンでの順位等がそうです。これらを通じて、私たちは競争社会の基本を学んできたともいえます。
証券会社に就職し、営業の仕事に就いた私は、「社内競争」というものに出会いました。
「どうせ学生時代の競争と同じだろう」
どちらかといえば、競争することが好きだった私は、学生時代と同様に取り組めば、うまくいくものと考えていました。ところが、就職してまもなく、社内競争と学生時代の競争との間に大きな違いがあることがわかりました。そして、「私の人生には社内競争など意味がない」という結論に至ったのです。
学校での競争は成績の順位であれ、校内マラソンの順位であれ、参加者全員に与えられた条件はほとんど同じであり、その中での競争となります。一見すると不公平な点はないかのように見えます。ところが、ここには明らかにおかしな点があります。
私が通っていた中学校の通知表は5段階評価でした。40名のクラスメートのうち、上位の五名までが「5」、逆に下位の五名は「1」というように決まっていました。英語の成績で「5」をとりたければ、上位五名に入ればよかったのです。しかしながら、このクラスに英語圏の国から帰ってきた帰国子女たちが10人もいたらどうなるでしょうか。「5」をとれる確率がぐっと下がると思います。クラス替えで、偶然にもそのようなクラスに入ってしまうと、自分の実力が同じであっても「5」をとれるはずが「4」になってしまうのです。校内マラソンについても同様です。同じタイムでゴールインしたとしても、陸上部の生徒が何人参加しているかで自分の順位に違いが出てくることになります。
学生時代の競争で私が問題だと感じていたのは「相対評価」だということでした。「点数が何点だったか」「タイムはどれくらいだったか」というのは絶対値ですが、「順位」というのは相対値です。その人本来の実力は「絶対値」ではかるものではないでしょうか。
営業の仕事に限らず、従業員に対する一般的な会社の評価は「順位付け」によるものです。順位付けを行うことで、一人ひとりに危機感とライバル心を抱かせ、より高い成果を上げるように煽ります。
そうすると、自分がどんなによい成績を上げたとしても、同期で更によい成績の人がいた場合は、順位が下がります。また、配属された地域が、首都圏だった場合と地方だった場合とでは、成績に差が出るかもしれません。どこの事業部に配属されたのか、どのような顧客を引き継いだのかでも成績に差が出るのではないでしょうか。これでは本当にその人の実力が順位に反映されているとはいえません。
私が驚いたのは、実力のない者ほど、実力のある者の足を引っ張るということでした。実力では勝てないとなると、自分を高める努力をするのではなく、競争相手の邪魔をするのです。本来、仲間であるはずの同僚の足を引っ張ってどうするのでしょうか。これでは、全体から見ればマイナス以外のなにものでもありません。やがて、そういった環境が嫌になった優秀な人は、よりよい環境を求めて会社を去ることになるでしょう。残るのは、人を跳ね除け、人を踏みつけることを何とも思わない人間ばかりになってしまいます。
スティーブン・R・コヴィーの『第8の習慣』によると、一般的な企業の従業員に対して行われた調査で「競合他社より、社内の同僚との競争のほうが気になる」と答えた人の割合は、なんと82%にものぼるというのです。これでは競合他社だけでなく、お客様に対しても目を向けるゆとりがなくなるでしょう。確かに、私も証券会社に勤めていた頃は、競合他社に関する情報よりも、社内端末に表示される順位表のほうが気になっていました。
社内競争を強いられている従業員たちは有益な情報を進んで提供したり、共有したりするでしょうか。おそらく情報を出したいとは思わないでしょう。隣の人が困っているときに助けるでしょうか。その人を助けた時間の分だけ、自分の成果が下がるのですから躊躇してしまうでしょう。
組織は、1+1を5にしなければならないはずです。ところが、社内競争が存在すると、あくまで1の実力の人と1の実力の人が同じ組織に所属していて2となるにとどまってしまいます。せいぜい競争で片方の人の実力が2となって、1+2が3になるだけです。そこにチームワークがなければ3を5にすることは難しいのです。下手をすれば、社内競争のために足を引っ張り合って、引き算にすらなりかねません。上から「チームワークを発揮することが大切です」と言われても、単なるお題目にしか聞こえないのではないでしょ
うか。
ライブレボリューションでは「順位付け」を一切していません。メンバー同士を比較するようなこともしません。評価は「絶対評価」で行います。「順位付け」がないため、メンバー同士で足の引っ張り合いをすることはありません。むしろ、周りの仲間を助けることで、全体に対してプラスになることを理解しています。
「絶対評価」であれば、お互いにノウハウを教えあい、情報を共有し、共に成長しようという心が生まれます。社内の仲間との競争を意識する必要がないと、外に目を向けることができます。お客様とも向き合うゆとりが生まれます。
『サービスが伝説になる時』(ベッツィ・サンダース著・和田正春訳)では「企業が顧客を失う理由」として「従業員の無関心な態度」がトップに挙げられています。これは62%にものぼり、14%で2位として挙げられている「商品への不満」をはるかに上回っています。
私は、企業がお客様を失う遠因は「社内競争」にあると見ています。従って、順位付けをしない方針で経営してきました。この方針で問題になったことは一度もありません。評価を「相対評価」ではなく「絶対評価」にしてきたからです。
単に売上や利益で順位付けしてしまうと、「その企業で順位が上がる方法」に従って行動するようになります。ほかのやり方を試しているゆとりなどありません。「訪問営業が一番だ」と信じられている会社では、訪問営業ばかりになってしまうでしょう(もちろん、いつかは異端の者が、その慣習を破って変化を促してくれるのだが)。
どうせ競争をするなら、相手は「理想の自分」であるほうがよいと思います。想像力のある限り、相手(自分)はどんどん強くなってゆくため、いつまで経っても自分を甘やかすようなことをさせてはくれません。しかし、だからこそ自分をより一層高めつつ、同時に、いつまでも謙虚な気持ちにさせてくれるのです。
証券会社に就職し、営業の仕事に就いた私は、「社内競争」というものに出会いました。
「どうせ学生時代の競争と同じだろう」
どちらかといえば、競争することが好きだった私は、学生時代と同様に取り組めば、うまくいくものと考えていました。ところが、就職してまもなく、社内競争と学生時代の競争との間に大きな違いがあることがわかりました。そして、「私の人生には社内競争など意味がない」という結論に至ったのです。
学校での競争は成績の順位であれ、校内マラソンの順位であれ、参加者全員に与えられた条件はほとんど同じであり、その中での競争となります。一見すると不公平な点はないかのように見えます。ところが、ここには明らかにおかしな点があります。
私が通っていた中学校の通知表は5段階評価でした。40名のクラスメートのうち、上位の五名までが「5」、逆に下位の五名は「1」というように決まっていました。英語の成績で「5」をとりたければ、上位五名に入ればよかったのです。しかしながら、このクラスに英語圏の国から帰ってきた帰国子女たちが10人もいたらどうなるでしょうか。「5」をとれる確率がぐっと下がると思います。クラス替えで、偶然にもそのようなクラスに入ってしまうと、自分の実力が同じであっても「5」をとれるはずが「4」になってしまうのです。校内マラソンについても同様です。同じタイムでゴールインしたとしても、陸上部の生徒が何人参加しているかで自分の順位に違いが出てくることになります。
学生時代の競争で私が問題だと感じていたのは「相対評価」だということでした。「点数が何点だったか」「タイムはどれくらいだったか」というのは絶対値ですが、「順位」というのは相対値です。その人本来の実力は「絶対値」ではかるものではないでしょうか。
営業の仕事に限らず、従業員に対する一般的な会社の評価は「順位付け」によるものです。順位付けを行うことで、一人ひとりに危機感とライバル心を抱かせ、より高い成果を上げるように煽ります。
そうすると、自分がどんなによい成績を上げたとしても、同期で更によい成績の人がいた場合は、順位が下がります。また、配属された地域が、首都圏だった場合と地方だった場合とでは、成績に差が出るかもしれません。どこの事業部に配属されたのか、どのような顧客を引き継いだのかでも成績に差が出るのではないでしょうか。これでは本当にその人の実力が順位に反映されているとはいえません。
私が驚いたのは、実力のない者ほど、実力のある者の足を引っ張るということでした。実力では勝てないとなると、自分を高める努力をするのではなく、競争相手の邪魔をするのです。本来、仲間であるはずの同僚の足を引っ張ってどうするのでしょうか。これでは、全体から見ればマイナス以外のなにものでもありません。やがて、そういった環境が嫌になった優秀な人は、よりよい環境を求めて会社を去ることになるでしょう。残るのは、人を跳ね除け、人を踏みつけることを何とも思わない人間ばかりになってしまいます。
スティーブン・R・コヴィーの『第8の習慣』によると、一般的な企業の従業員に対して行われた調査で「競合他社より、社内の同僚との競争のほうが気になる」と答えた人の割合は、なんと82%にものぼるというのです。これでは競合他社だけでなく、お客様に対しても目を向けるゆとりがなくなるでしょう。確かに、私も証券会社に勤めていた頃は、競合他社に関する情報よりも、社内端末に表示される順位表のほうが気になっていました。
社内競争を強いられている従業員たちは有益な情報を進んで提供したり、共有したりするでしょうか。おそらく情報を出したいとは思わないでしょう。隣の人が困っているときに助けるでしょうか。その人を助けた時間の分だけ、自分の成果が下がるのですから躊躇してしまうでしょう。
組織は、1+1を5にしなければならないはずです。ところが、社内競争が存在すると、あくまで1の実力の人と1の実力の人が同じ組織に所属していて2となるにとどまってしまいます。せいぜい競争で片方の人の実力が2となって、1+2が3になるだけです。そこにチームワークがなければ3を5にすることは難しいのです。下手をすれば、社内競争のために足を引っ張り合って、引き算にすらなりかねません。上から「チームワークを発揮することが大切です」と言われても、単なるお題目にしか聞こえないのではないでしょ
うか。
ライブレボリューションでは「順位付け」を一切していません。メンバー同士を比較するようなこともしません。評価は「絶対評価」で行います。「順位付け」がないため、メンバー同士で足の引っ張り合いをすることはありません。むしろ、周りの仲間を助けることで、全体に対してプラスになることを理解しています。
「絶対評価」であれば、お互いにノウハウを教えあい、情報を共有し、共に成長しようという心が生まれます。社内の仲間との競争を意識する必要がないと、外に目を向けることができます。お客様とも向き合うゆとりが生まれます。
『サービスが伝説になる時』(ベッツィ・サンダース著・和田正春訳)では「企業が顧客を失う理由」として「従業員の無関心な態度」がトップに挙げられています。これは62%にものぼり、14%で2位として挙げられている「商品への不満」をはるかに上回っています。
私は、企業がお客様を失う遠因は「社内競争」にあると見ています。従って、順位付けをしない方針で経営してきました。この方針で問題になったことは一度もありません。評価を「相対評価」ではなく「絶対評価」にしてきたからです。
単に売上や利益で順位付けしてしまうと、「その企業で順位が上がる方法」に従って行動するようになります。ほかのやり方を試しているゆとりなどありません。「訪問営業が一番だ」と信じられている会社では、訪問営業ばかりになってしまうでしょう(もちろん、いつかは異端の者が、その慣習を破って変化を促してくれるのだが)。
どうせ競争をするなら、相手は「理想の自分」であるほうがよいと思います。想像力のある限り、相手(自分)はどんどん強くなってゆくため、いつまで経っても自分を甘やかすようなことをさせてはくれません。しかし、だからこそ自分をより一層高めつつ、同時に、いつまでも謙虚な気持ちにさせてくれるのです。



