従来の給与制度の問題点
日本の典型的な給与制度といえば「年功序列型賃金」でしょう。これは、勤続年数や年齢などに応じて賃金が決まる給与制度です。この制度を採っている企業は、役職も年功序列で決まる傾向にあります。従って、結果的に勤続年数、年齢、役職等が連動することになります。「和」や「安定」といったものを好む日本人の国民性もあってか、個人の能力や実績よりも「年功」を評価の対象とすることが定着していました。
ところで、従業員がこの給与制度から恩恵を受けるためには、定年退職するまで企業がきちんと存続し、成長していることが前提となります。若い頃は、生産性に比べて給与が低く抑えられているため、長期間在職しなければ割に合いません。逆に言えば、我慢してでも在職し続けていれば割に合ったということです。しかしながら、この「年功序列型賃金」は、つぶれないと思われていた大企業や金融機関の倒産、そして情け容赦ない従業員のリストラによって、給与制度としての信頼を失ってしまいました。
私が就職活動をしていた頃(1998年前後)には、すでに「年功序列型賃金」は破綻しており、就職活動中の学生の間でも不人気でした。上司や同期と比べて、明らかに大きな成果を上げたとしても評価に差が生まれないのであれば、成果を出すことに意義を見出しにくいでしょう。加えて、40歳あたりでリストラされる可能性があると思うとますます希望が持てなくなります。その結果、多くの就活生たちが、若いうちに稼げるであろう「成果主義」を標榜する企業(主に外資系企業)を目指すことになったのです。
会社を設立してから一年ほどたった頃、私は中途採用で優秀な人材を獲得するために給与制度を考えることにしました。
「やはり若いうちに稼げるほうが魅力的だろう」
私も含めた当時の経営メンバーが、まだ20代後半だったこともあり、「成果主義」を色濃く反映した給与制度を作ろうということになりました。
「営業職には、稼いだ月間粗利の10%を翌々月に還元する」
年齢、経験、勤続年数等に関係なく、基本給を一律25万円とし、営業職の場合には、その月に稼いだ粗利の10%を成果報酬として翌々月に還元することにしました。月間の粗利を500万円稼ぐと、翌々月には成果報酬としてその10%である50万円が基本給に加算されます。合計で月給が75万円ですから、23歳~
27歳くらいまでの年齢の人たちには悪くない金額です。ちなみに、営業職以外の職種(経理職やデザイナー職等)には成果報酬がつかず、年功序列型賃金としました。
実は、この給与制度をスタートしてから三年後の大量採用・大量入社の頃までは、それでうまく機能していました。当時、10名ほどだったメンバーのほとんどが営業職で、かつ組織的に動いていたというよりも一人で仕入れから販売まで担っていたからです。稼いだ額が、そのまま本人の実力を示していました。
これが、新たに30名ほど入社してきて、個人プレーよりもチームプレーが重視されるようになると状況が一変しました。ひとつの案件を、営業担当、仕入れ担当、デザイン担当といった具合に分業してこなすようになったため、「営業職だけ成果報酬があるのはおかしい」という声が次々と上がってくるようになりました。「では、一案件を四人で担当したら粗利の2.5%ずつ成果報酬を分配しましょう」ということになったのですが、「案件に携わる時間や必要なスキルが異なるのに、成果報酬を均等に分配するのはおかしい」「一案件ごとに成果報酬を決めていたら給与計算に支障が出る」といった意見も出てきて、まるで玉突き事故のように問題が拡大していきました。
「他の部署に移動する際にお客様を持っていけないのなら、異動したくない」
「あの優良顧客を彼に引き継ぐのは不公平だ」
「営業職から成果報酬のつかない職種には変わりたくない」
「営業成績が上がっているうちはよいのだが、スランプでお客様を失うと一気に収入が
減ってしまうため、安心できない」
2005年4月に『LR HEART』をつくり、「メンバーのベクトルを合わせよう」と思っていたところで、分業体制に移行したばかりの社内から続々と給与制度にかかわる不満が噴出しました。
「こうなったら、徹底的に給与制度を見直すしかない」
私は、さまざまな文献やインターネット上の情報等から、他社の給与制度を探してきては分析してみました。ところが、「これは素晴らしい!」と思える制度はありませんでした。成果報酬型も目標管理型もコンピテンシー型も、すべて一長一短なのです。「こちらを立てればあちらが立たず」といった具合に、どの給与制度も導入前から、いずれ起こるであろう問題が見えていました。場当たり的に、それらの給与制度に変更したところで、目先の問題が解決されるだけであり、また全く別の問題にすぐに悩まされることになるだけでした。
私は「2006年1月から新給与制度をスタートさせます」と社内に宣言してしまったため、それに間に合わせるべく、経営メンバーと共に毎朝1時間半の検討会を続けました。ところが、その期限が近づいても理想の給与制度は一向に見えてきませんでした。
「3ヶ月だけ延長させてください」
さらに、みんなから3ヶ月の猶予をもらったにもかかわらず、3月20日になっても給与制度は決まりませんでした。
「高木さん、明日は給与制度を考えるために一緒に来てください」
2006年3月21日、私と高木は二人で、横浜の赤レンガパークを訪れました。
「価値観と給与は必ず連動させたい。しかし、役職と給与の連動ってどうなんだろうね」
私が高木に向かってそう口にし、彼のノートを覗き込んだときのことです。
「あっ!!!」
高木のノートの中には、へたくそな三本の平行線がボールペンで描かれていました。私はその三本の平行線を見たと同時に、9ヶ月もの間考えてきた課題に対する「最適解」を見出したのです。
「究極の給与制度を思いついたぞ」
それは、ライブレボリューションの給与制度が誕生した瞬間でした。
ところで、従業員がこの給与制度から恩恵を受けるためには、定年退職するまで企業がきちんと存続し、成長していることが前提となります。若い頃は、生産性に比べて給与が低く抑えられているため、長期間在職しなければ割に合いません。逆に言えば、我慢してでも在職し続けていれば割に合ったということです。しかしながら、この「年功序列型賃金」は、つぶれないと思われていた大企業や金融機関の倒産、そして情け容赦ない従業員のリストラによって、給与制度としての信頼を失ってしまいました。
私が就職活動をしていた頃(1998年前後)には、すでに「年功序列型賃金」は破綻しており、就職活動中の学生の間でも不人気でした。上司や同期と比べて、明らかに大きな成果を上げたとしても評価に差が生まれないのであれば、成果を出すことに意義を見出しにくいでしょう。加えて、40歳あたりでリストラされる可能性があると思うとますます希望が持てなくなります。その結果、多くの就活生たちが、若いうちに稼げるであろう「成果主義」を標榜する企業(主に外資系企業)を目指すことになったのです。
会社を設立してから一年ほどたった頃、私は中途採用で優秀な人材を獲得するために給与制度を考えることにしました。
「やはり若いうちに稼げるほうが魅力的だろう」
私も含めた当時の経営メンバーが、まだ20代後半だったこともあり、「成果主義」を色濃く反映した給与制度を作ろうということになりました。
「営業職には、稼いだ月間粗利の10%を翌々月に還元する」
年齢、経験、勤続年数等に関係なく、基本給を一律25万円とし、営業職の場合には、その月に稼いだ粗利の10%を成果報酬として翌々月に還元することにしました。月間の粗利を500万円稼ぐと、翌々月には成果報酬としてその10%である50万円が基本給に加算されます。合計で月給が75万円ですから、23歳~
27歳くらいまでの年齢の人たちには悪くない金額です。ちなみに、営業職以外の職種(経理職やデザイナー職等)には成果報酬がつかず、年功序列型賃金としました。
実は、この給与制度をスタートしてから三年後の大量採用・大量入社の頃までは、それでうまく機能していました。当時、10名ほどだったメンバーのほとんどが営業職で、かつ組織的に動いていたというよりも一人で仕入れから販売まで担っていたからです。稼いだ額が、そのまま本人の実力を示していました。
これが、新たに30名ほど入社してきて、個人プレーよりもチームプレーが重視されるようになると状況が一変しました。ひとつの案件を、営業担当、仕入れ担当、デザイン担当といった具合に分業してこなすようになったため、「営業職だけ成果報酬があるのはおかしい」という声が次々と上がってくるようになりました。「では、一案件を四人で担当したら粗利の2.5%ずつ成果報酬を分配しましょう」ということになったのですが、「案件に携わる時間や必要なスキルが異なるのに、成果報酬を均等に分配するのはおかしい」「一案件ごとに成果報酬を決めていたら給与計算に支障が出る」といった意見も出てきて、まるで玉突き事故のように問題が拡大していきました。
「他の部署に移動する際にお客様を持っていけないのなら、異動したくない」
「あの優良顧客を彼に引き継ぐのは不公平だ」
「営業職から成果報酬のつかない職種には変わりたくない」
「営業成績が上がっているうちはよいのだが、スランプでお客様を失うと一気に収入が
減ってしまうため、安心できない」
2005年4月に『LR HEART』をつくり、「メンバーのベクトルを合わせよう」と思っていたところで、分業体制に移行したばかりの社内から続々と給与制度にかかわる不満が噴出しました。
「こうなったら、徹底的に給与制度を見直すしかない」
私は、さまざまな文献やインターネット上の情報等から、他社の給与制度を探してきては分析してみました。ところが、「これは素晴らしい!」と思える制度はありませんでした。成果報酬型も目標管理型もコンピテンシー型も、すべて一長一短なのです。「こちらを立てればあちらが立たず」といった具合に、どの給与制度も導入前から、いずれ起こるであろう問題が見えていました。場当たり的に、それらの給与制度に変更したところで、目先の問題が解決されるだけであり、また全く別の問題にすぐに悩まされることになるだけでした。
私は「2006年1月から新給与制度をスタートさせます」と社内に宣言してしまったため、それに間に合わせるべく、経営メンバーと共に毎朝1時間半の検討会を続けました。ところが、その期限が近づいても理想の給与制度は一向に見えてきませんでした。
「3ヶ月だけ延長させてください」
さらに、みんなから3ヶ月の猶予をもらったにもかかわらず、3月20日になっても給与制度は決まりませんでした。
「高木さん、明日は給与制度を考えるために一緒に来てください」
2006年3月21日、私と高木は二人で、横浜の赤レンガパークを訪れました。
「価値観と給与は必ず連動させたい。しかし、役職と給与の連動ってどうなんだろうね」
私が高木に向かってそう口にし、彼のノートを覗き込んだときのことです。
「あっ!!!」
高木のノートの中には、へたくそな三本の平行線がボールペンで描かれていました。私はその三本の平行線を見たと同時に、9ヶ月もの間考えてきた課題に対する「最適解」を見出したのです。
「究極の給与制度を思いついたぞ」
それは、ライブレボリューションの給与制度が誕生した瞬間でした。



